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深田久弥を巡る脳内フライト

深田久弥の「日本百名山」はまだ読んだことがない。深田久弥という作家の人と也についての最初の情報は田澤拓也著の「百名山の人 深田久弥伝」だった。

この本の中でも述べられているが、百名山で有名な深田久弥の山岳に関係しない文学作品のある程度は、最初の妻である北畠八穂との共作もしくは原作者と執筆者のようなものであったらしい。北畠八穂のWikipediaを開けば、まるで深田は文学者としてはなっていないかのようにも見受けられる記載がある。北畠の郷里の青森では泥棒と称されているとも聞く。

どの品評も正しくて間違っているのであろう。藤子不二雄のコミックがそれぞれの原案を元にアシスタントを介して完成されれいた訳だから、お互いが納得しているのであれば(確執があったにせよ)、共作のようなものであったことは後世のものがとやかく言うものではないのだろう。

たまたま「玉まつり 深田久弥 『日本百名山』と『津軽の野づら』」門玲子著を手に取って読んだ。

深田の故郷の大聖寺出身の後輩であり、深田の小学校の同級生の娘という立場である。どうしてもやや深田寄りの文章になるのだろうか。北畠が書いたものは他の地方の人間には到底読み取れない方言の文章で文章は脈絡のない飛び飛びで独り善がりな比喩が多すぎて、世に出すには到底無理なものだったという。深田が「翻訳」推敲することでようやく日の目を見るようなものだったのだと。

北畠側からの論評も本になっているようなのでそれも読まないとフェアではないなぁと思いつつ読了した。

本編の内容とは別に気になる一文があった。

深田久弥の家は大聖寺の紙屋・印刷屋であり、比較的裕福で文化的な幼少期を送ったようだ。近隣には大聖寺藩藩政時代からの医師の家系である稲坂医院があり、院長の数年上の稲坂謙三氏とは懇意でかつ同地の学生会の主要メンバーであったとのこと。深田久弥の大聖寺時代の話には必ず登場する人物だ。

稲坂謙三氏の医院の跡取りは、自分の学生時代のサッカー部の大々先輩の稲坂暢先生だが、何と言うかボス中のボスである。家柄的にも地域でのポジションとしてもオピニオンリーダーの家系なのだろう。

山中で勤務していた時に地元のサッカーチームで細々とプレーしていたが、加賀市サッカー協会長であった稲坂先生にはいつも声をかけていただいた。母は山代温泉の出身で大聖寺高校に通っていたので、稲坂先生の数年後輩にあたるのではないだろうか。この年代でも学生会が機能していたのか聞いてみたが、山代温泉と大聖寺では新宿と八王子くらいの違いらしい。田舎とはいえ大聖寺藩のお膝元の文化度は違っていたようだ。

少し脱線したが、気になる一文とはこれ。「深田謙三は冬季白山縦走を最初に成し遂げた…」と言うもの。

ググってみると日本山岳会の会誌が見つかった。著作権的にどうかとも思うがネット公開されているのでちょっと拝借。

大正時代の装備で尾添村から(加賀禅定道か)入り北縦走路を通り越してさらに笈ケ岳から大門まで縦走したという記録。ちなみに文章中にあるように印刷所は深田の生家である。当時の5月は現在の3月末くらいの雪の量だろうか。時代を考えると簡単とはいえない。

また「稲坂謙三 白山 縦走」でググると石川県白山自然保護センター普及誌「はくさん」の第36巻2号がヒットする。深田久弥山の文化館館長高田氏の講演を文章にしたものから少し引用する。

深田さんからは、よく白山一緒に登ろうよ。そして、一緒に白山を滑ろうと言っておられた。今、白山麓にずいぶんスキー場ありますが、当時はありません。 つまり、山スキーをやろうってことです。深田さんはいわゆるゲレンデスキーは上手じゃないとご自分でも仰っており、だけど、リュック背負って 山滑らしたら絶対転ばないと、それは自信をもって言っておられました。

おそらく昭和30年後半くらいの話だと思う。この頃の道具は何だったのだろうか。革靴テレマーク だろうか。Nishidenさんが山スキーを始めた頃は昭和55年くらいとのことだったが、もうアルペンブーツでジルブレッタの時代だったと言う。

積雪期の白山縦走。今の装備を以ってしてもなかなかに大変だろう。素晴らしい足跡だと思う。

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